Vol.18 ~プミポン国王が変えた立憲政治の理想~

参考記事:http://www.afpbb.com/articles/-/3104427

南アフリカとモザンビークに挟まれた小さな国、スワジランドという国に、生後まもなく即位し約83年間君臨していた国王がいた。ラーマ9世、プミポン国王はそれよりは13年短いが、それでも70年間国王として影響を持ち続けた人物である。タイという国は国際的影響力も強く、スワジランド全人口約100万人の67倍、約6700万人も住む国である。

 ミュージカル『王様と私』で渡辺謙が演じたラーマ4世の子ラーマ5世(チュラロンコン)は、タイを近代化させた人物として、多くの日本人が耳にしたことのある名前だ。そのラーマ5世の子ラーマ7世の時代に事件は起こった。

近代化による財政難に世界恐慌が追い討ちをかけ、タイの国家財政は破綻寸前となり、1932年人民党による立憲革命となった。新政府に利用されたくないと思ったラーマ7世はイギリスへと亡命した。その後を継いだラーマ8世もしばらくは学業に専念するということで、第二次世界大戦中もスイスに滞在し続け、帰国後まもなく、1946年に暗殺された。5人の容疑者は最後まで容疑を否認し続け、確固たる証拠がないまま死刑が執行された。

王室の浪費、立憲革命、海外亡命、海外滞在、そして謎の多き暗殺と続いたチャクリ王室に対する国民の支持と敬愛は次第に薄れていっていた。

そんなときに即位したのが、怪死したラーマ8世の弟プミポン国王だった。立憲王政という隠れ蓑で民政移管と軍事クーデタが繰り返えされていた時代。不安定な情勢に、二十歳そこそこのプミポンは「象徴」に過ぎなかった。

しかし、共産主義の波が荒れ狂う1960年代半ば頃から、軍部×学生・市民に対しては完全に中立な立場を貫き、様々な利害関係の調停役に徹し、不安定な国政の安定を目指す国王ね姿があったのだ。67年に成立したASEANでは東南アジアのリーダー的存在ともなった。

私も記憶している1992年の軍部政権×民主化運動。その際、プミポン国王が両者のリーダーを玉座の目の前で正座させ、叱りつけ、騒乱を一夜にして治めたことを今でも忘れない。

また、2003年にカンボジアと国境にある世界遺産の領有権で小競り合いが起きた。一部のタイ国民が扇動されカンボジア大使館を襲おうとした際、諌める言葉を発表したことで、暴徒は直ちに消えた。

仏門に入ったこともあるプミポン国王の冷静沈着・明快無比な言動は、ラーマ5世の絶対王政以来のチャクリー王家の威信を回復させた。19世紀後半に行われた黄金のチャクリー改革を国政にも甦らせたのだ。
すべての店が早じまいし、多くの国民が黒系の服に着替え、国王の遺体を乗せた車が王宮へ向かう道路を埋め尽くした。

ある人は写真を持ち、ある人は花束を持ち、ある人は泣き叫び、ある人はうずくまったままだった。

新国王になる息子の評判は芳しくない。タイは新しい時代に向かっていくことになるだろう。主軸をうしなった凧はゆらゆらと落ちるしかないのかもしれない。しかし、プミポン国王が国民ひとりひとりに刻み込めた「バランス」の重要性を思い出し、必ずや浮上してくれると願っている。

「国王の遺体が王宮へ」
http://www.afpbb.com/articles/-/3104427

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